白い心(ハヤンマウム)/神様が下さった最後の手紙(하나님이 주신 마지막 편지)

釈迦とイエス様の断食(석가와 예수의 금식)

utyujin 2024. 6. 24. 11:50
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4,464番目手紙の中から (2003年 1月 8日 09時 07分)

あなたたちが私に祈る時、断食というその祈祷に突入することは、清い精神として祈るためだから、生食で小食を取りながら祈ることは当たり前なことであって、ただ飢えて心が迷い乱れた状態でそのようにすることではないのである。
あなたたちが断食祈祷をすることは、まさにそのような意味である。「右の頬を打たかれたら、左の頬も打たれなさい。」と言うのは、あなたたちが当然知っているのである。そして「怨讐(敵)を愛しなさい。」とすることもみんな知っているのである。しかし、それを実際に実践してみればそのように行う事ができないのである。どんなに聖人君子で悟った者であっても、人間世俗でぶつかって生きて行きながらそのように行うことができないと思うのではないのか! そのようなことを世俗の縁を切って、見ないで、聞かないで、ただの何時間、何秒でもそのように天使のような心で人間が耐えることができるかという、そのような訓練と試験をするために、悟りを得ようとそのように行くのである。それであなたたちが小食を取りながら世俗に接しないであなたたち自ら天使のような心で住むことができるか、できないか、そのような試験をして、その中であなたたちができるということを悟るそれがまさに断食の祈祷だから、まさにあなたたちが土窟に入って行って、この世を見ず、考えないでその中で心を無にする訓練をすることと同様である。
お釈迦様が菩提樹の下で数年ずついたことは、何であると思うのか? 彼はどのように生きて行かなければならないかということを知って、慈悲ということを自ら悟って知ってはいたが、体で実践する事ができなかったのである。私の息子イエスがその難しくて大変な広野で私に祈って悟りを得ようとしたから、彼も同様だったのである。私エホバが願うことが何であるか知っていたし、また天使の心で行かなければならないということを知っていたのである。しかし、聖霊で懐任したイエス様も肉を持ってこの世に生まれたので、果して肉を持った形態で私の心性、天使のような心の限界を、人間が果して越えることができるかということを得ようとしたのである。本当に耐え難い苦痛の中ですべて捨てて、見ないで聞かないで自ら一人で座って忍耐するその広野の祈祷の中で、「右の頬を打たかれたら、左の頬も出す」その境地に目覚めようとしたのである。
 釈迦は、菩提樹の下で祈りながら慈悲を施しながら暮すことができると感じ、私の息子イエスは広野で祈りながら人間は天使のような心で暮すことができるというそれを感じたから、彼らはその所で自ら自分を見つけようと心の中で戦って勝つ、それを訓練して試驗したのである。そして彼らは、できるという結論を得ただけである。あなたたちも「できる」と言う心を持って生きて行けばそのように役事することができることを知りなさい。これが彼らが行った道であり断食の意味であることを今悟って、あなたたち自ら人間世俗に住みながらその境地に到達するそのような悟りを得て暮さなければならないことを忘れるな。