私は、電気技術者であり電力会社に勤めていた父(木谷英一)と師範学校を特進で卒業した母(城悠紀子)の間に、長男として1953.7.28に大阪の柏原市で生まれた。
今も記憶に残っているのは、幼稚園時代からであるが、私が通っていたのは、第二白鳩幼稚園といい、記憶にあるのは、お弁当をストーブで温めて食べていたことと、お昼ねタイムがあったことぐらいである。
小学校は、家から歩いて10分位の距離にあった、柏原東小学校である。学校のすぐ隣にあった文房具店に当時まだ少なかった電気鉛筆削りがあり毎日のように通っていたように思う。普通、鉛筆を削るためには切り出し刀等を使用していて、私は、刃を研ぐことも上手であった。授業が終ると、学校の裏にあった笹薮に入って、研いた刃物で細い竹や笹を切って紙鉄砲を作ったりして遊んでいた。
休み時間には、うんていという遊具にぶら下がったり、棒登りなどを良くしていたので、あだ名は、サルであった、歴史の時間に豊臣秀吉(あだ名がサル)が出てきた後は、 豊臣秀吉の孫の孫の孫・・・と言われた。
小学校の4年までは、地元の学校に通っていた。いたずらが好きで良く先生に怒られて、廊下に立たされたが、テストの成績は良くクラスで1、2位を争っていた。テストで100点をとると先生が、100点賞と書いた鉛筆を1本くれたので、クラスで一番成績の良かった女子と、100点賞鉛筆の本数比べをしていた。
家に帰ると、近所の子供と遊んだり、家から見える頂上に大きな岩があったタカガミ山(高尾山277m)によく登った。山の上り口に神社があり、中腹まではブドウ畑が続いていた。夕暮れになると山頂から家まで走って帰ったのを覚えている。
バケツ一杯のビー玉
小学生の遊びといえば、剣玉、ビー玉、こま回し、凧揚げなどだったけれど、私は、ビー玉の名人だったようで、ビー玉をころがして、遠くにいったものから、他の子のビー玉に当てればそのビー玉をもらうことができた。近所の子供からビー玉を勝ち取って集めていたようで、ビー玉がバケツに一杯あった。好奇心が旺盛で女の子の体がどうなっているか気になって一度ゲームの罰として女の子の体を触って泣かせてしまったことがあった。とても悪いことをしたと、今も思うのである。
越境入学
地元の小学校に通っていたのは、4年生までで、5年生からは、大阪市内の常盤小学校という大きな学校に転入した。学校の近くに有った母の知り合いの家(お米屋)に住んでいることになっていたが、実際は、柏原から電車で通学していた。いわゆる越境入学したのである。
新しい学校で、私が最初にしたことは、勉強ができそうな子の横に席をもらって友達になることだった。やはり都会の学校である、中々勉強では勝てなかった。友達になるために、クラスでも頭の良い男子に近づいたが、あまり親しくはなれなかった。
ある日、学校主催の写生大会があった。大阪の中之島にある中央公会堂を写生した、隣りに私と同じように越境入学している男子がいたので2人で協力して、同じ建物を写生した。
結果、2人そろって入賞して、学校の入り口の建物に写生会の作品が貼り出されたのを覚えている。 後になって母が幼稚園の時、NHK主催の絵描き会で入選したことがあると教えてくれた、少しは才能があったようだ。その男の友人は、ピアノも上手で、音楽室でよくピアノを弾いているのを見かけたりした。
私は、普段は大人しくてあまり目立たない子であったが、時々思い切ったことをやった。ある時、友達が肝試しをしようと言い出し、お前は、書店で本を万引きできないだろうと言ったので、勇気を見せるために一冊の門を服に中に入れて書店を出た。万引きをしたのである。その本がなんと小さな新約聖書だったのである。
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