2024/02/17 14

79 卷の神様のみ言葉

イエス様が牧師の学校を出たのか[5,824番目神様のみ言葉の中から (2003年 4月 4日 06時 37分)] イエス様が牧師の学校を出たのか、神学校を出たのか? 私から直接に命を受けて彼がこの世に来て伝えたのである。今、160卷の新しい聖書を書いて万民を救おうとする私の息子もまた、彼が神学校という学校に通い、そこで名称を受け、そこで肩書きを受けて教えたのか? 君たちはそのような道理から目覚めて、脱しなければならないことを知りなさい。誰でも私エホバが必要で成そうとすれば、私が彼を呼んで用いるのである。誰でも私エホバの意志にしたがって暮して、生活に忠実であり、要所要所で他人に模範になる生活を送って行く、そのことがまさに伝道であり、私の聖書を教える道であるということを君たちは知らなければならないのである。 私の聖書というのは、制限されたものではなく、その比喩の意味は誰でもが悟ることができ..

アルバイトは、大学の授業より面白い

少し時間が前に戻るが、私は、学生時代から、郵便配達、家庭教師、アンケート調査員等、色々なバイトをしたけれど、多かったのは、いわゆる土方のバイトで、当時高くて6千円ぐらいだったと思う。但し、土方のバイトは、1週間に一度は休まなければならなかったが、ある時、予定の学生が来ず、仕事を頼まれて結局13日間連続して働いたこともあった。当時の私に体重が52キロで、歴代の最高値であり、今も50キロの体重を維持している。私の専門は、繊維工学であるが、バイトを通じて、建物の解体から建設する全ての過程を学ぶことができた。土方のおじさんたちは、口は悪いが、仲間になると良いおじさんたちであった。 大学1年の時は、松本市の郊外にあった農家に下宿していた。下宿代が安かったからであるが、後でその理由を知ることになる。 農家のはなれに4人の学生が下宿していた。ある日、夕食時に明日朝6時に起床するように頼まれた。田植え..

バイト代50万円!

ある年は、日本フィリップスという会社にアルバイトで入社して、年末商戦時に、池袋のさくら屋サンシャイン通り店に販売促進員として送られた。私の担当は、当時流行っていたオイルヒーターで、目標の台数を販売しなければならなった。開店は10時から8時までだったが、出勤から片付けまで、毎日3時間の残業手当が付いた。この時も持ち帰りが多かったので、1日中倉庫と販売フロアーを往復する日々であり、もらったアルバイト料は、50万円を越えてしまった。これは、当時、部長クラスの給料であったように思う。クリスマスに、店のメーバー達とプレゼントの抽選があった。その時抽選でもらったのは、古風な外見の音声時計である。

難しいビザの取得

私が韓国に来た頃は、ビザの取得及び延長が容易ではなかった。当時やっと取得したビザを延長するには、一度国外に出なければならず、2年に一度は、日本に戻らなければならなかった。日本に戻って領事館に延長の申請をしても1ヶ月から1ヶ月半は待たなければならなかった。 その間、アルバイトをしていた。今ではすっかり様変わりしてしまったけれど、当時の秋葉原は電化製品であふれていた、私の仕事は、SANYOの会社から派遣される販売促進応援員であり、主に電子レンジなどを担当した。この時、1ヶ月の販売目標が、400万だったと思うが、それを達成すると賞をもらえるということだった。私は、SANYOの製品を売らなければならないけれど、お客さんの希望の商品を選んであげてメーカーに関係なく販売した。持ち帰りが多く、1日中倉庫と販売フロアーを往復する日々であった。その結果、400万円の販売目標も達成することができた。当時大..