白い心(ハヤンマウム) 470

前世(전생)

6,257番目手紙の中から (2003年 5月 27日 09時 20分)あなたたちが前世を憶えることができなくて前世を知らないのは、あなたたちの未来を知ることができないし未来を知らないこととまったく同じことなのに、どのような理由で知らない未来に対しては存在すると言いながら、あなたたちが知らない過去に対しては存在しないと、そのように言うか?あなたたちは、必ず前世の生活があるので今日現在の生活があり、未来の来世の生活が一緒に連係されて行くということを知らなければならないのである。ただ、あなたたちは前世も記憶することができないし、未来の来世の生活も知り得ないのである。これを否定し、これを拒否する者たちは、果して私の聖書にそのような内容がどのようなに記録されているかを見なさい。私は、聖書にあなたたちの前世の生活があり、どこから来たのかということを悟ることができる文句をすべて記録して、伝えたのに..

最後の時代、日付と時間を記録して証拠(마지막 시대, 날짜와 시간을 기록하여 증거)

6,183番目手紙の中から (2003年 5月 16日 23時 11分)今審判の時代に、私エホバの聖霊が伝達することは、日付と時間が記録されていて、厳然にそのようなすべてを証拠することが記録されてこの世に下されるのだから、多くの歳月が経った後、今日の日付であり、時間が記録されることがどんなに偉大な私エホバの意志であるかを知るようになるのである。私が今、日付と時間を正確に記録して伝えるのは、私エホバが直接関与して直接あなたたちを目覚ませようとするその役事だから、どんなに歳月が経ったとしてもこの時代とこの日付と時が、すべての役事を証拠する大変化の基礎ができあがるのであり、これによってあなたたちは堅固に私の新しい聖書が存在したことを知るようになるのである。それで、最後の時代に私がこのように記録するのである。

宗教デパート(종교 백화점)

6,162番目手紙の中から (2003年 5月 14日 22時 44分)この東洋の小さな国には、すべての民が一つずつ宗教を持っていて、すべてが宗派を持っているのがこの東洋の小さな国の民であるとしたのだから、これは何を意味するのか? 私が宗教のデパートを作ったのが、この小さな国である。あなたたちがデパートで品物を見て選んで買うように、幾多の宗派を見て目覚めるようにしようと、そのようにしたのである。デパートで品物をいろいろと見られるように、すべての宗派の意味に目覚めて、すべての宗派に対して知っている民にしようとしたのである。そして、私の新しい聖書が世を覆う時、あなたたちが今まで信じた宗派が間違っていることを誰もが答えることができ、誰もが抗言することができ、それに対する理由をつけて甲論乙駁することができるのが、私の選択した民が行かなければならない道であるからである。すべての宗教の宗主国よりも..

私の音声を直接機械に記録して伝えるのだから(나의 음성을 직접 기계에 기록하여 전함이니)

6,140番目手紙の中から (2003年 5月 11日 06時 41分)これからは、私がお前を通じて私の音声であり私の意志を直接機械に入力してそれを伝えるようにするのだから、その音声を持ってお前の弟子たちが勉強して、それを教えるようにしなければならないのである。今の宗教集団であり、宗教指導者たちが教える方法では、絶対に一つになることができないのである。あなたたちは一つの聖書を用いても、教えることが異なり伝えることが異なり、解釈が異なるからである。だから、そのようなものを持って今まで数千年間流れて来たのだから、その意味が異なるのである。しかし、私の音声を直接聞かせてあげることによって、私が下す音声の意味が何であり、私が願うことが何であるのかそのまま聞くのであり、すべての民が同じ音声を聞くのであり、同じ声を聞くのであり、一緒に目覚めて行くようになっているのである。

聖霊が臨む方法(성령이 임하는 방법)

6,122番目手紙の中から (2003年 5月 7日 23時 56分)あなたたちが救いを受ける、受けることができないということは、私の息子イエスの名前によって、また私の息子があなたたちに臨むことによって永遠な生命を得て救いを受けるのではなく、私の聖霊があなたたちに臨んだ時に救いを受けるということを忘れるな。そして私の聖霊があなたたちに臨むことができる美しい心の空間を作らなければならないのだから、私の聖霊があなたたちに臨むことができる、空いているその心の空間がない限り、私の聖霊はあなたたちに臨むことができないということを知らなければならないのである。あなたたちが私の戒めを守って暮して、心を無にして、邪悪な欲心を捨てて、空いているその心の空間であり、そのきれいな所がある時、私の聖霊があなたたちに臨むのだから、邪悪な心があなたたちの心を支配してあなたたちの心中に美しい心の空間がない時、私の聖..

肉の行うことは重要ではない?(육의 행함은 중요하지 않다?)

6,120番目手紙の中から (2003年 5月 7日 08時 33分)あなたたちが話すことの中で最大の罪の項目は、何であると思うのか? 「肉の行うことは、重要ではない。」そのように教えることである。それならあなたたちが教会を尋ねること、私を尋ねること、泣き叫ぶその行為は、まさに肉の行動で成り立っているのではなくて何であると言うことなのか? あなたたちが教会を尋ねること、聖殿を尋ねること、会堂を尋ねること、そのすべてがあなたたちの肉の行動で成り立つことであり、肉の動きである。あなたたちが善良な事をした行動は、私に賞を受けることができなくて、私に罪を犯す事をしたことのみ罰を受けるというのか? 善なることも行動することであり、悪いことも行動することである。殺人をすることは何なのか? 行動として行って、行動に移された肉の行動である。

「愛」ならすべて実践することができること(‘사랑’이면 다 실천할 수 있는 것)

6,117番目手紙の中から (2003年 5月 7日 08時 07分)愛の門を開いて愛の目を開いてみれば、すべてのものは、すべてその下にあるのである。私がこの世にすべてを創造して送ったのが愛だから、すべては愛の中にあるのである。その愛の意味を知る時、愛の中ですべてが成り立って、愛の中で生存して、愛の中で死んで生きることであり、愛の中で形成されるということを知るのである。私の新しい聖書に千種類、万種類を守りなさいと送り届けるが、それが愛ならすべて覆われることであり、愛ならそれをすべて実践することができることだから、それをあなたたちが実践することができない、できると言うそのこと自体がどんなに欲心であり、どんなに愚かであり、どんなにかわいそうなことなのか?あなたたちが愛する心をどれくらい開いたか、愛する目をどのくらい開いたかによって、すべては、柔らかくなるのである。愛というその心の前に溶けな..

2千年前から伝え下された言葉、末世、異端(2천 년 전부터 전해 내려오는 말, 말세, 이단)

6,057番目手紙の中から (2003年 4月 28日 23時 59分)2千年前、私の息子イエスがこの世へ来た時に彼を死ぬようにさせた彼らも何と言ったか? 末世にサタンであり、にせ先知者(預言者)が来ればこの世を覆すといったのだから、あなたたちの先輩たちであり、宗教指導者の根であり、宗教集団があの時からそのように言い、私の被造物である万民が2千年前から耳が痛くなるほど聞いた話が、まさにこれである。果してあなたたちが生きれば何年を生きられるか? だからあなたたちもその声に迷ってあなたたちの自身の真の真理であり天に上がる道を見ることができずに、宗教指導者たちの僕になってただ奴隷のように引かれて行って「終末が来る、にせ先知者(預言者)の来る時代が来る、ゆえにそこで私がだまされないようにしなくてはいけない。」そのような考えをして、死んで地獄に流れていく今の状態にあるから、その根を一度探して見る..

新興宗教集団は異端(신흥 종교 집단은 이단)

6,043番目手紙の中から (2003年 4月 26日 10時 26分)今すべての宗教集団は、新興宗教集団を互いに異端であり、サタンと言うが、その数字が増えて互いに力を競うのが手に余れば、私たちをサタンであり、異端と言った者たちと闇取引をして彼らの願いを聞いて協作して妥協して、「あなたはお前なりに、私は私なりに行く道を行こう。」とするのが彼らである。力を競って勝つことができない時、彼らは敢えてサタンであり、異端と言わないでただ収容して互いに良いことが良いと調和して行くのが今この世に成り立った宗教集団であり、指導者たちである。そして彼らは生き残るために勢力を増やして数字を増やさなければならないし、他人が敢えて倒すことができない大きな聖殿を作らなければならないから、あらゆる邪悪な手段と方法でそこに動員し、そして彼らは十戒を守って暮すことができないと言うのである。だから彼らは今、あなたたちを..

すべての動植物、無生物がすべて師匠(모든 동식물, 무생물이 다 스승)

5,951番目手紙の中から (2003年 4月 13日 08時 22分)私エホバがあなたたちに体罰するその恐ろしさより、あなたたちと共にいるすべての動植物であり、無生物が、あなたたちに要求してあなたたちが真っ直ぐに立つことを願うその恐ろしさを知らなければならないのである。「お父様、すべての無生物が、この机が私を支えることを嫌がって、椅子が私が座ることを嫌って、コンピュータが私が手をつけることを嫌がるから、これからは彼らから歓迎を受ける私になるようにいたしまして、ひいては聖殿に入るのに一点の恥ずかしさがなく、講論をすることに一点の恥ずかしさがなく、祈祷を捧げるのに一点の恥ずかしさがない生活をいたします。それが、私が行かなければならない道で、私が役事しなければならない道であるということを今、悟りました。」私の息子は、今から一点の恥ずかしさもないように歩んで行くのであり、この聖殿に入って来る..