utyujinのひとりごと(우주인의 혼자말) 27

RAYMAYのはさみ

中学校の校庭の裏に文房具の倉庫?があった。ある日、ダンボールを開いて文豪具を安売りしていた。 その時、私の目に留まったのが、きれいなハサミであった。中学生には高かったのだが買うことにした。1千円以上したように記憶している。55年過ぎた今も私の横にある代物である。レイメイという名前を思い出したので、調べてみると同様のものが今も同じ程度の価格で販売されいて驚いた。昔の千円と今の千円ではまったく価値が異なるだろうに。。。 自分で少し研いだこともあるが、良いものは、長く使えるものだと感心するのである。

初めてのアルバイト

私が、いろんなアルバイトをするようになったのは、もうお分かりのように、模型を買うためであった。中二の夏休みに、家の向かいにあった鋳物工場のおばさんが、アルバイトをしないかと言ってきた。中学生のアルバイトは、当時認められていたのかどうかわからないが、1日1000円で2週間バイトすることにした。家から自転車で10分の距離にあった新田ゼラチンという会社であった。動物の皮革や骨から抽出したゼラチンを網の上で乾燥させてたものを網から剥がして箱に入れる作業を、おばさんたちと一緒に働いた。剥がれにくい物は、あばさんたちが苦労していたので、良く手伝ってあげた。バイトは、2週間で、最後の日に10日分のバイト代を貰った。給料袋には、12000円入っていて、表には、「一生懸命働いてくれたので、バイト代を1日1200円で計算しました。ご苦労さんでした。」とメモが書いてあり、感動した。これが、私の人生初のアルバ..

模型の好きな友達

中学に入ってから、模型の好きな友達ができ、友達3人[宮路(ラジコン)、石井、近江]と模型クラブを作った。しかし、お小遣いでは完成品は買えなかったので、比較的安いキットや小高模型のペーパーキット(硬質紙と木材)を買って制作した。 2年16組の時、157系の日光という電車の模型を5両作った。1両だけは、カワイモデルのキットで残りの4両は、ペーパーキットであった。その他に色々な模型を作るために木を削ったり、真鍮をはんだ付けしたり塗装したり、電気配線をしたり、すべて独学で学んだ。おかげで学校の技術家庭科の成績はいつも1番になった。手間をかけて作った模型は、中学校の文化祭で、教室にレールをひいて展示および運転会をして楽しんだ。作った模型は、全部ではないが今も手元に置いてある。当時の技術が良かったのか、もう55年程経ったのに、ほとんど壊れていないのは不思議である。

父からの贈り物

小学校を卒業すると、そのまま同じ地域のマンモス中学校(文の里中学校)に入学した。 1学年に20クラスもあったのである。 私の父は、自分のことを話すのをほとんど聞いたことがなっかた。一緒に出かけたり遊んだ記憶もほとんどない。私の父は、何時も帰宅が遅く酒好きだったので、一緒に遊んだ記憶がほとんど無い。そんな父が、私を中学の近くにあった模型店に私を連れて行って、中学学校の入学祝いだ言って、小さな蒸気機関車の模型を1つ買ってくれた。それは、嬉しかったのだけれど、残りは自分で買えと言われた。HO(16ミリゲージ)という鉄道模型なのであるが、遊ぶには色々なものが必要であったのである。 父がなぜ鉄道模型を買ってくれたのかは不明であるが、家の物置に真鍮製の昔の電気機関車の模型の作りかけがあった。おそらくOゲージ(34ミリ)の模型だろうと思った。父も模型を作り始めたが、当時は多くの部品を工具を使って自作..

幼い頃の思い出

私は、電気技術者であり電力会社に勤めていた父(木谷英一)と師範学校を特進で卒業した母(城悠紀子)の間に、長男として1953.7.28に大阪の柏原市で生まれた。 今も記憶に残っているのは、幼稚園時代からであるが、私が通っていたのは、第二白鳩幼稚園といい、記憶にあるのは、お弁当をストーブで温めて食べていたことと、お昼ねタイムがあったことぐらいである。 小学校は、家から歩いて10分位の距離にあった、柏原東小学校である。学校のすぐ隣にあった文房具店に当時まだ少なかった電気鉛筆削りがあり毎日のように通っていたように思う。普通、鉛筆を削るためには切り出し刀等を使用していて、私は、刃を研ぐことも上手であった。授業が終ると、学校の裏にあった笹薮に入って、研いた刃物で細い竹や笹を切って紙鉄砲を作ったりして遊んでいた。 休み時間には、うんていという遊具にぶら下がったり、棒登りなどを良くしていたので、あだ名..

面白いアルバイトと電気工事士の免許

ビザの延長のために帰国した当時、工事現場のいわゆる土方のバイトは、8千円くらいだったけれど、バイト代も1.2万円ととても良いバイトを見つけた。主に昼間ではなく、夜から朝に掛けての仕事である。西早稲田にあった私がバイトをした会社(三協電気工業株式会社)の現場事務所は、デパートの地下の電気設備の傍らにあった。デパートの電気設備全般の管理をしているのだけれど、バイトの主な仕事は、夕食を終えると其処に集合し、デパートが閉店するのを待つ。閉店すると仕事開始である。主な仕事は、デパートの催し会場の解体と新しい催し会場の設営である。夜のデパートの中を歩くとマネキンの姿がとても不気味であった。真っ暗なデパートの中で催し会場だけがすごい熱気で包まれている。朝10時の開店までに全ての仕事を終えなければならない。夜のデパートがこんなにも忙しいものだとは知らなかった。 最初は、先輩の仕事の補助をしていたけれど..

大学院入学試験

この頃は、家からの仕送り(3万程)は使わず、アルバイトで生計を立てていた。大学に有賀という友人がいた。彼とは成績の競争していたのだけれど、お前は、大学以外の活動ばかりしているので成績が下がったのだと言われた。悔しかったので、3年生の勉強は、熱心にした。もちろんいろんな活動もしていた。3年生の時の頑張りが、大学院に進学することにつながった。専門課程の優の評価数が多い学生は、無試験で大学院に進学できたのだけれど、私は1つ足りなくてテストを受けた。友人の有賀は、無試験で大学院進学を許可されていた。 試験中に不思議な体験をした。問題を見ているとこの問題は何の問題かを考えていると、頭の中に以前3年生の時に整理したノートが浮かんだ、頭の中でそのノートをめくっていって問題の答えを見つけ出すことができた。ドイツ語の試験もあった。ドイツ語は辞書持ち込みであったので、初めは試験場に辞書をめくる音がしていた..

アルバイトは、大学の授業より面白い

少し時間が前に戻るが、私は、学生時代から、郵便配達、家庭教師、アンケート調査員等、色々なバイトをしたけれど、多かったのは、いわゆる土方のバイトで、当時高くて6千円ぐらいだったと思う。但し、土方のバイトは、1週間に一度は休まなければならなかったが、ある時、予定の学生が来ず、仕事を頼まれて結局13日間連続して働いたこともあった。当時の私に体重が52キロで、歴代の最高値であり、今も50キロの体重を維持している。私の専門は、繊維工学であるが、バイトを通じて、建物の解体から建設する全ての過程を学ぶことができた。土方のおじさんたちは、口は悪いが、仲間になると良いおじさんたちであった。 大学1年の時は、松本市の郊外にあった農家に下宿していた。下宿代が安かったからであるが、後でその理由を知ることになる。 農家のはなれに4人の学生が下宿していた。ある日、夕食時に明日朝6時に起床するように頼まれた。田植え..

バイト代50万円!

ある年は、日本フィリップスという会社にアルバイトで入社して、年末商戦時に、池袋のさくら屋サンシャイン通り店に販売促進員として送られた。私の担当は、当時流行っていたオイルヒーターで、目標の台数を販売しなければならなった。開店は10時から8時までだったが、出勤から片付けまで、毎日3時間の残業手当が付いた。この時も持ち帰りが多かったので、1日中倉庫と販売フロアーを往復する日々であり、もらったアルバイト料は、50万円を越えてしまった。これは、当時、部長クラスの給料であったように思う。クリスマスに、店のメーバー達とプレゼントの抽選があった。その時抽選でもらったのは、古風な外見の音声時計である。