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なぜ、ひらがなとカタカナがあるの?

◎なぜ、ひらがなとカタカナがあるのか? このあたりのことを、SFチックな夢想を交えて少々考えてみたいと思います。 カタカナは、平安時代初期の天平勝宝年間(西曆749-756年)に、吉備眞吉備が50音図と共に選定したと伝えられています。 しかしこれはあくまでも伝承で、実際には当時の多くの学者が協力して選定したと思われます。 そして「片仮名」という呼び名は、漢字の一部を取って作ったため、「片方だけの仮名(仮の文字あるいは借りた文字)」からきているとされています。 カタカナは、漢文を訓読するための補助文字として作られた文字で、原則として漢字と一緖に使用され、カタカナだけで文章が書かれることはありませんでした。 そして、当時の日本では漢文を公式記録用の文字体系として用いていましたから、カタカナも公式補助文字として位置づけられ、主として公式の文章や学問的な堅い內容の文章に用いられました。 現在で..

カタカナ-元漢字ー該当ハングルの比較表

ア 아 阿(아) イ 이 伊(이) ウ 우 宇(우) エ 에 江(강) オ 오 於(어)․放(방) カ 카까 加(가) キ 키끼 幾(기)․起(기) ク 쿠꾸 久(구) ケ 케께 介(개)․希(희) コ 코꼬 己(기) サ 사싸 散(산)․左(좌) シ 시씨 之(지) ス스수쓰쑤 須(수)․寸(촌) セ 세쎄 世(세) ソ 소쏘 曾(증) タ 타따 多(다) チ 치찌 千(천) ツ츠추쯔쭈 川(천)․爪(조) テ 테떼 天(천) ト 토또 止(지) ナ 나 奈(내) ニ 니 二(이)․仁(인) ヌ 누 奴(노) ネ 네 祢(이)․禰(녜) ノ 노 乃(내) ハ 하 八(팔)․波(파) ヒ 히 比(비) フ 후 不(부) ヘ 헤 部(부)․辺(변) ホ 호 保(보) マ 마 萬(만)․末(말) ミ 미 三(삼) ム 무 牟(모) メ 메 女(여) モ 모 毛(모) ヤ 야 也(야) ユ ..

ひらがな-元漢字ー該当ハングルの比較表

あ 아 安(안) い 이 以(이) う 우 宇(우) え 에 衣(의) お 오 於(어) か 카까 加(가) き 키끼 幾(기) く 쿠꾸 久(구) け 케께 計(계) こ 코꼬 己(기) さ 사싸 左(좌) し 시씨 之(지) す스수쓰쑤 寸(촌) せ 세쎄 世(세) そ 소쏘 曾(증) た 타따 太(태) ち 치찌 知(지) つ츠추쯔쭈 川(천)州(주) て 테떼 天(천) と 토또 止(지) な 나 奈(내) に 니 仁(인) ぬ 누 奴(노) ね 네 祢(이)禰(녜) の 노 乃(내) は 하 波(파) ひ 히 比(비) ふ 후 不(부) へ 헤 部(부)? ほ 호 保(보) ま 마 末(말) み 미 美(미) む 무 武(무) め 메 女(여) も 모 毛(모) や 야 也(야) ゆ 유 由(유) よ 요 與(여) ら 라 良(양) り 리 利(이) る 루 留(유) れ 레..

母音(ぼいん)と子音(しいん)

◈ 日本語(にほんご)の母音(ぼおん)は、「あ․い․う․え․お」の 5つだけ。 あ い う え お a i u e o 아 이 우 에 오 「あ․い․う․え」は、韓國語とほとんど同じで、「お」は、韓國語ほど口を丸めない。 日本語は、母音の數が少ないため、唇(くちびる)を橫に引いたり、前に突き出したり、 丸めたりといった特徵をあまり强調しないで發音されている。 ◈ 50音圖は、この母音と子音の組合わせでできています。「ん」だけは例外。 子音で終わる發音がないため、必(かなら)ず母音がついたり、「ん」がつきます。 (例) ノ․ムヒョン(no-muhyonn) キム․デジュン(kimu-dejyunn) キム․ヨンサム(kimu-yonnsamu) 誰の名前か、分かりますね。( )內は、ローマ字入力時。 ◈ ハングルの母音と日本語の母音の関係 (ハングルは、基本母音が10、複合母音(ぼいん)..

アルバイトは、大学の授業より面白い

大学1年(教養部8F44)の時は、松本市の郊外(松本市外本郷村惣社423)にあった農家に下宿した。下宿代が安かったからであるが、後でその理由を知ることになる。 農家のはなれに4人の学生が下宿していた。ある日、夕食時に明日朝6時に起床するように頼まれた。田植えをするというのである。秋には稲刈りもした。稲刈りの終わった日の夕食は、とても豪華だった。おかげて、農家の仕事も一通り学ぶことができた。 農家には、小学生の女の子がいたのだけれど、その娘は、よく宿題をもって私の部屋に来ていた。松本市は、標高600メートルの盆地である、周りを高い山で囲まれていて雪は多くはなく、乾燥して冷え込みが激しかった。地面が凍てつき風が吹くと水道の蛇口に静電気が走った。 ある夜、銭湯に行った帰り道、何やらチャランチャランと音がした。不思議に思って立ち止まると、その音も止まった。氷のお化けでも出てのかと思ったが、下宿..

YMCA予備校

予定通り!予備校の試験を受けて入学し、友達と一緒に皆一生懸命勉強した。夏休みは、中学時代の友達と一緒に、クーラーの効いた大きな図書館の学習ルームに陣取って勉強した。そして、受験シーズンの前に勉強仲間のみんなで、室内スケート場に遊びにいった。アイススケートを楽しみながら、皆が「もうこれ以上滑れない!」といったので、帰ることにした。その後、みんなそれぞれ自分の大学に進学していった。 私は、大阪工業大学の試験に合格し、入学金も払ってあったが。国立大学ニ期校の1つである信州大学繊維学部の試験を受けて(繊維学部の受験番号:T88)合格した。 母親は、家から通える私立の大阪工業大学に通うことを願っていたが、父は、国立大ということで信州大学に通うことを許してくれた。親元を離れて独立したいと願っていた私の夢が叶ったのである。

金魚鉢高校

私が通った阪南高校は、全クラスの教室の両サイドが全面ガラス貼りの校舎であり、窓がなかったので、みんなが金魚鉢と呼んでいた。一様は、進学校であるが、進学のための特別授業などはなく、普通の授業のみであり、大学に進学するには、最初から浪人を覚悟していた。学校までは、最寄の地下鉄の駅からは10分以上かかった。電車が遅れると学校まで猛ダッシュした。担任の先生が乗っていることもあり、その場合は、先生より早く到着すれば問題なかった。机の下に持ってきた弁当を隠しておいて、1間目か2間目には、毎日のように早弁をしていた。授業が始まると学校の門が閉まるので、学校には、売店があったように思うけれど、休憩時間には、多くの者が学校の弊を越えて、門の外のお店で飲み食いしていた。冬の寒い日に氷アイスを食べていたら唇が凍ってアイスにくっついてしまい慌てたことがあった。 学校から駅の中間に公園がありいつも通っていた。こ..